2009年08月01日

「黄金」と「無限」の世界観

ベアトリーチェは「無限」と「黄金」の魔女。
作中には他に「絶対」の魔女や「奇跡」の魔女など、称号を持つ魔女が多数登場している。

その魔女の魔法体系を記したものを、魔道書という。
現在最も普及している魔道書を聖書としている点から、
魔法体系とは、思想と置き換えられるだろう。
ならば魔女とは一体何なのか?
「無限」や「黄金」、「絶対」という「言葉」は概念だ。
そういう「言葉」によって、私たちの思考は支えられている。
魔女はその概念を擬人化させたものではないだろうか?
人の思考の根源をつかさどる、思いや感覚そういったものだ。
千年生きた、というのは、その言葉が生まれて、人々に根付いて千年(永い時)が過ぎたという事。


「無限」というのは、一体どういうものだろうか。
作中のベアトは「無限」の力を用いて、無限に惨劇を起こす。
外側から観測されない限り、密室も、六軒島も、「うみねこ」も、あらゆる無限の「可能性」がある。
これがベアトの「無限」の魔法だ。
また、これは私たちの世界にも通じている。
うみねこ世界を観測するわたし達ではあるが、わたし達自身は観測されない。無限の可能性がある世界。


一方「黄金」だが、黄金というのは正確に言えば、
金蔵に現実の「黄金」というものを与えた、魔法によって実現化させた、という事だ。
箱を開けた時に、そこで何が起こったかはわからないが、六軒島の人間が全滅したという事実。
想像上ではなく、それが事実であると保障されている事が「黄金」の概念である。
赤字が使える空間も「黄金」の魔女だからこそ、構築できたわけだ。

この対比は、
「アンチミステリー」と「アンチファンタジー」にも対応する。
無限の可能性がある、ということは「アンチミステリー」であり、
幻想ではない黄金が実際にあるというのは「アンチファンタジー」だ。
わたし達が「アンチミステリー」vs「アンチファンタジー」で煽られているように、「黄金」と「無限」は、対立する思考に見える。
だが、ベアトリーチェはこの二つの概念を両方とも我が物としている。

この思考を矛盾させないために、ベアトは
マリアの「原初」の魔法を取り込んだ。
0から1を作り上げる力があれば、「無限」に現実化(「黄金」)を行うことができる。
つまりこれは、創造主たる作者と同列の事ができるという事だ。
むしろ、明言はされていないが、ベアトが作者の代弁をしているといったほうがいいような気がする。
ベアトとバトラの対立式は、そのまま作者と読者の対立だ。

ただし、作中の設定から、ベアトリーチェの力が及ぶのは、マリアとベアトがお互いに魔女だと尊重しあうことが条件とされている。
他者と関与し、認めあう事でその魔法は成立する。


対立しているはずの「アンチミステリー」と「アンチファンタジー」は、
実は共存できるものだ、と考えられる。
うみねこの物語は「アンチミステリー」であり、「アンチファンタジー」なのである。
推理は不可能(現実世界と同じく、無限の可能性が否定できないという意味で)、しかしファンタジー(魔法で黄金を作り出したり密室をつくったりするという意味)でもない。
今ある情報ですべてを解決できるわけではない。
だが、作者は何度も言う。思考を止めるな、考え続けろ、と。


世界は無限の可能性を秘めている。未来は定まらない。
何かを現実のものとすることは、誰にも不可能を証明できない。
現実のものとするためにどうすればいいか、考えろ。

posted by stem at 20:09| Comment(0) | 竜騎士07の意図を読み解く | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。